■悲観的マイナス思考の性格を直すには?楽観的な人になるには?悲観的/楽観的な人の特長と条件/考え方/生き方
~悲観的から楽観的な人になる方法~
バス子「は~ぁ。周りの友人達は、みんな結婚していって・・私は彼氏もいないのに。焦っちゃうし、つい悲観的なマイナス思考になっちゃうなぁ。」
バス男「バス子ちゃ~ん。悲観的なマイナス思考は辞めなよ。」
バス子「うん。私も悲観的なマイナス思考を辞めたいのだけど、つい・・。どうすれば良いのかしら?」
バス男「僕のように、釣りのことを考えるのに忙しくなれば、悲観的なマイナス思考も消えるハズだよ。」
バス子「・・聞く人を間違ったみたい。やっぱり仙人に【悲観的から楽観的な人になる方法】を聞きに行ってみようかしら。」
バス男「仙人様の【~ハラハラ・ドキドキ人生を諦める?~悲観的から楽観的な人になる方法】かぁ。」
※個人的な偏った‘思い込み’から書かれた記事となります。
~悲観的から楽観的な人になるコツは【ハラハラ・ドキドキ人生を諦めること】~
1.悲観的から楽観的な人になる方法
①期待をせずして楽観的になるコツ/秘訣
■A君の質問に対し、私は「うーむ・・」とだけ答えました。
・・個人の人生に関しては、{長期的には、どうなることが最善か?}がわからないため、個人の人生に関する相談や質問には、アドバイスのしようがなく、私はひそかに幸運を祈ったのでした。
<{長期的には、どうなることが最善か?}はわからない>
人間万事塞翁が馬という諺もあるとおり、私達の人生においては、{長期的には、どうなることが最善か?}がわかりにくいものなのかもしれません。
例えば恋愛においても。
今現在、片思い中の人と両想いになれ結ばれることは、短期的には最善!と言えそうですが、そのことが長期的な最善となるか?に関しては、断言しにくいものがあるのかもしれません。
片思い中の人から振られた後に、本当の人生のパートナーと出会えることも、あるのかもしれませんし・・{長期的には、どうなることが最善か?}は、わかりにくいよう思われたのでした。
個人的な人生を振返ってみても。
当時私は、自分自身に対しても、また自分の人生に対しても、強い強い不満や満たされない気持ちを抱いて・・否、‘満たされない気持ち’なんて生易しいものではなく、最も辛かった時期には絶望しかなく、人生を早送りさせたい気持ちをも感じていたのでした。
私は、いつも不満を感じながらイライラしていて、幸せが訪れても続きはしないし、落胆することの多い人生を生きていたのでした。
そんなある日。
仕事終わりに行った近所のラーメン屋にて。
己が潜在的にもっていた「こっちはお客様なのだから、店員は、ペコペコしてこちらを尊重する態度をとるべきだ!」という期待を店員さんから裏切られ、イライラすることになって・・
私のイライラしている態度を見て、店員のお兄さんも、私に対してイライラすることになり、
そして会計の際、店員のお兄さんはあからさまに怒った態度で「ありしたー」と適当に「ありがとうございました。」を言い、私も、その店員のお兄さんの態度に怒り「2度と、このラーメン屋には来まい!!」と腹立たしく思ったのでした。
その日、美味しいハズのラーメンも美味しく味わえず、さらには家の近くで気軽に行ける飲食店も、1つなくなってしまったのでした。
私は帰宅途中、「流れが悪いな。・・少し冷静にならないと・・。」と思い、大きく深呼吸して{どうしてこんなことになったのか?}を分析してみたのでした。
その結果、私のストレスの原因は、期待感と現実のギャップにあるようにも思われたのでした。
私は小さい頃からずっと長いこと、「諦めたらそこで試合終了だよ!希望をもって生きていかないと!」「きっと良いこともあるさ。人生に期待をもって生きていこう!」と、心のどこかで人生に対し、漠然と期待をもって生きていました。
しかし、大人になって現実を味わえば味わうほど・・・毎回、期待を裏切られ、その都度イライラすることになったり落胆させられたり、と少しづつ人生に失望していって、いたのでした。
つまり。
私はどうも、期待と現実の狭間で、{期待と現実のギャップ}に苦しんでいるようにも思われたのでした。
私は、理想と現実の狭間で、{理想と現実のギャップ}に苦しんでいるようにも思われたのでした。
私は、己の身の丈に合わぬ高い理想を抱いていて、自分の努力以上の期待を、人生に対しもっていて。
だからこそ現実を経験していくたびに「こんなハズじゃない!もっと私は、私の人生は、素敵なはずなのだ!なのに、なぜ現実は?」と、イライラすることになったり落胆させられたり、しているようにも思われたのでした。
★悲観的から楽観的な人になる方法★
~ストレスやイライラの原因 → {理想/期待}と現実とのギャップ~
そのことを理解し始めたこともあって。
私は【諦め】という考え方を、意識し始めることになっていくのでした。
理論的には、高い{理想/期待}を諦めさえすれば、イライラやストレスが減ることになるよう思われました。
ストレスやイライラ、落胆の原因 は、{理想/期待}と現実とのギャップにあるから・・。
もし私が、人生に対して過度/過剰なほどの期待・・・「人生が、こうなって欲しい!」をもたなくなれば、現実がどうなろうと、【期待と現実のギャップ】も生じなくなるため、理論的には、イライラやストレスが減ることになりそうだと思われ、私は、人生に対する過度/過剰なほどの期待を、諦めることになっていくのでした。
しかし、期待をまったく持たないだけでは悲観的/マイナス思考にもなりがちであるため、人生に対する過度/過剰なほどの期待を諦めつつも、楽観的であることが大切なのかもしれない、とも感じていて、
例えば恋愛においては。
好きな異性に対する、「両想いになれないであれば、それはそれで仕方ない」という諦めの覚悟や、「結婚出来なくても、その時はその状況の中で幸せに生きていけば良いよ。」という諦めの覚悟、及び楽観をもち、「総じて見れば、きっと良くなっていくよ」という期待をもって・・
その‘期待’には「まぁ、最悪、別に期待通りにならなくてもいいけど」という楽観や軽い気持ちもあって。
その心境に至るには、{現実がどうなろうと心のコントロール次第で幸せを感じることは可能なのだ}という確固たる想いをもつと同時に、真実を知ることも必要となるようにも思われたのでした。
‘真実’
<全てが同じ1つであり、この世界は{同じ1つの}の現われであり意識が作り出している幻想だ>
過度/過剰なほどに強い悲観は、「この現実世界はリアルだ。幻想なんかではない!私は、私という1個人であり、全体と同じ1つなどではない!もし私の期待が達成されなければ、私の人生は、あーなって、こーなって、あ~大変!どうしよう?そんなことになれば私は、幸せになれないじゃないか。私は私は私は私は・・」という大前提のもと生きているから、生じるものなのかもしれません。
現実の世界も、夢の世界も、私達の意識の投影/反映であり、物理学も言及し始めているように物質はエネルギーでもあり、物理次元(現実世界)における全てが、同じ1つのエネルギーの現われにすぎない・・のであれば。
関連→エネルギー問題の解決策(同じ1つのエネルギーの現われ/人間や現実の正体)
この痛いほどリアルに思える現実世界は、リアルに思えるものの、実は意識が作り出している‘夢’でもあり、
夢は寝ている間に体験する‘夢’であり、現実は起きている間に5感(視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚)を使用し体験する‘夢’なのかもしれない。
だからこそ、生まれながらの病気で5感全てが機能していない人には、起きている間に体験する現実という名の‘夢’は存在しないのかもしれない。
5感(視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚)の全てが機能していないのに、どうやって現実を体験すれば良いのだろう?
そういった意識や想いを持ち始めたからか。
寝ている間に体験する夢という名の‘夢’には、過度・過剰に執着をもたぬように、現実という名の‘夢’に対する異常に強い執着心も、以前に比べれば・・だが薄れることになったのかもしれない。
そして、寝ている間に体験する夢という名の‘夢’に対して、‘夢’がどう展開しようと「まぁ、最悪、別に期待通りにならなくてもいいけど」という楽観や軽い気持ちをもちがちなのと同じく。
起きている間に体験する現実という名の‘夢’に対しても、‘夢’がどう展開しようと「まぁ、最悪、別に期待通りにならなくてもいいけど」という楽観や軽い気持ちをも、もち始めた・・。
そりゃあ、寝ている間は、どうせなら良い夢を見たいよ。
だけど、まあ、執着するほどのこともないかな。
ガチガチなほどに肩に力を入れ、歯を食いしばり、他人の目や評価を気にしながら、高い高い理想や期待をもって、常にイライラしながら鋭い目つきやこわばった表情をしつつ、と、夢の世界を体験するほどのことはないかな。
そりゃあ、起きている間は、どうせなら良い現実を見たいよ。
だけど、まあ、執着するほどのこともないかな。
ガチガチなほどに肩に力を入れ、歯を食いしばり、他人の目や評価を気にしながら、高い高い理想や期待をもって、常にイライラしながら鋭い目つきやこわばった表情をしつつ、としながら現実の世界を体験するほどのことはないかな。
心のどこかに、そういった意識や想いがあるから。
‘期待’には「まぁ、最悪、別に期待通りにならなくてもいいかな」という楽観や軽い気持ちもあって。
そして、夢の世界や、この現実世界を織り成している{同じ1つのエネルギー}は、宗教的な表現を用いれば‘神’であり、‘神’の本質は、心の科学を何千年と研究してきている西洋/東洋の聖者達によれば愛であり喜びであり・・
関連→賢者とは?意味/賢者の本(あるヨギの自叙伝/東洋の聖者)
★悲観的から楽観的な人になる方法★
~夢や現実世界を織り成している{同じ1つのエネルギー} = ‘神’ = 愛/喜び~
そのため、夢の世界も現実の世界も、神の具現化/具象化・・言い換えると愛や喜びの、具現化なわけで。
であれば、私達の生きる、この痛いほどリアルに感じる現実という名の‘夢の世界’も、全てが愛や喜びの具現化であり、現実の世界が愛や喜びに溢れていても、問題はないのかもしれない。
<実は全てが、愛や喜びの具現化だった>
→「どういったことが、この世の真実か?」は、現時点での科学では、はっきりと断言することが出来ないのかもしれない。
現時点での科学には、「宇宙がどう始まったか?」も、「宇宙」のことも、「私達が生まれてきている理由」も、「この世が存在する理由」も、「死後はどうなるか?」も、「(寝て見る)夢」についても、「人間の体の不思議」についても、わかっていないことが多々あるから。
関連→健康的に痩せるダイエットと信念(「食べること、やめました」―1日青汁1杯だけで元気に13年)
そのため、「なにが真実なのか?」に関して、絶対的な答えがわからないだけに、どう思い込むか?は、個人次第となるのかもしれない。
私達は、「なにが真実なのか?」に関して、自分なりの答えをもってはいるものの、それは【絶対的な真実】とは断言できないのかもしれない。現時点での科学にはわかっていないこともあるため。
では、【絶対的な真実】がわかっていない以上、自分なりに思っている「これが真実だ!」は、絶対的な答えではなく個人的な‘思い込み’にすぎない・・とも言えるのかもしれない。
★悲観的から楽観的な人になる方法★
~「なにを真実」と思い込もうと、それは個人的な‘思い込み’となってしまう。現時点の科学では【絶対的な真実/絶対的な答え】がわかっていないから~
私は、自然科学のもと発展してきた物質文明社会における現在主流の仮説・・「この現実世界はリアルだ!」を、「真実だ」と思い込み生きていたのでした。
学校で家庭で、世の中で、そう教わってきたから。
自分でいろいろと研究/調査し、調べたわけでもないのに、ただ{他人達(学校の先生/親/周りの人々)の意見}を鵜呑み的に取り入れ、「この現実世界はリアルだ!」を、「真実だ」と思い込み生きていたのでした。
しかし、【絶対的な真実】がわかっていない以上、「なにを真実か?」と思い込もうと、それは個人的な‘思い込み’の領域を出ないわけで。
また、私は、常識や世間体、他人を尊敬し尊重するものの、もう今後は、常識や世間体、他人の‘意見’には、無理してお付き合いしないようにしたため。
自分だけが正しい!と思い込んでいる{自分とは違う他者の思い込みを尊重できない自己中心的な状態}である私は、苦しみはしたものの。
他者が、どういう思い込みをもっていようと、その他者の思い込みを尊重できるよう努めつつ、私は私で、心の科学のもと発展してきた現在マイノリティーな仮説・・「全てが同じ1つであり、この世界は{同じ1つの}の現われであり意識が作り出している幻想だ」を、「真実だ」と思い込むよう、していくのでした。
関連→常識と非常識/正しいまともな人とは?意味(自分だけが正しい?相対性と自分の意見と他人の意見)
・・そして、そう「真実」に関する思い込みを変えると、以前のような、大きな感情の起伏は薄れてしまうようにも思えるのでした。
人生を映画に例えるならば。
「この現実世界はリアルだ、幻想なんかではない!私は、私という1個人であり、全てが同じ1つなどではない!もし私の期待が達成されなければ、私の人生は、あーなって、こーなって、あ~大変!どうしよう?そんなことになれば私は、幸せになれないじゃないか。私は私は私は私は・・」という大前提のもと生きている方が、ワクワク感やドキドキ感、ピンチや、スリルや、天国、と思いきやどん底に落とされて・・などの、【常に大きな感情の起伏が出現し続ける人生映画】となりやすいのかもしれません。
一方。
「全てが、愛や喜びの具現化だ/全てが同じ1つであり、この世界は、{同じ1つの}の現われであり意識が作り出している幻想だ」という大前提のもと生きていると、【平穏な人生映画】となりやすいのかもしれません。
つまり、「どっちの映画を見ていたいか?」という話でもあるのかもしれません。人生という舞台にて。
ワクワク感やドキドキ感、ピンチや、スリルや、天国、と思いきやどん底に落とされて・・などの【常に大きな感情の起伏が出現し続ける70年続く映画】を、今世で見たい場合。
自然科学のもと発展してきた物質文明社会における現在主流の仮説・・「この現実世界はリアルだ!」を大前提にもって生きるのも良いのかもしれません。
一方、【70年続く平穏な映画】を、今世で見たい場合、心の科学のもと発展してきた現在マイノリティーな仮説・・「全てが同じ1つであり、この世界は、{同じ1つの}の現われであり意識が作り出している幻想だ」を大前提にもって生きるのも悪くはないのかもしれません。
私は、幸せや平穏な日々を望みつつも。
心の深い部分では「そんな退屈な刺激なき人生、おもしろくないよ!もっとワクワク感やドキドキ感、ピンチや、スリルや、天国、と思いきやどん底に落とされて・・などがあった方が良いよ!」とも思っていて。
そのため、無意識的に・・ではあるのですが、自然科学のもと発展してきた物質文明社会における現在主流の仮説・・「この現実世界はリアルだ!」を大前提としてもっておきたかったのかもしれません。
「全てが、愛や喜びの具現化だ/全てが同じ1つであり、この世界は、{同じ1つの}の現われであり意識が作り出している幻想だ」と認識するようになってしまえば。
ワクワク感やドキドキ感、ピンチや、スリルや、天国、と思いきやどん底に落とされて・・などの人生を、経験できなくなる可能性があるよう(無意識的に)思えていたからでしょうか。
<「なにが真実か?」の認識が変わってしまうと、人生の見方が変わり、人生で体感する感情が変わってしまう>
それは、たとえて言えば。
映画館で、映画の世界に見入っている最中、「あ、でも、これって映画だよね。」と気がついてしまうと、映画を見ている最中に、もうワクワク感やドキドキ感、ピンチやスリルにハラハラしたり・・などを、いまいち味わえなくなり、どこか平穏な気持ちで、映画を見てしまうのにも似ているのかもしれません。
それは、たとえて言えば。
寝ている最中、夢の中で、「あ、これって夢だ。」と気がついてしまうと、夢を見ている最中に、もう夢の中でワクワク感やドキドキ感、ピンチやスリルにハラハラしたり・・などを、いまいち味わえなくなり、どこか平穏な気持ちで、夢を見てしまうのにも似ているかもしれません。
現実の世界を生きていて。
「あ、これって現実なんだ。」と気がついてしまうと、現実を見ている最中に、もう現実世界の中でワクワク感やドキドキ感、ピンチやスリルにハラハラしたり・・などを、いまいち味わえなくなり、どこか平穏な気持ちで、現実を見てしまうことになりがち・・なのかもしれません。
私は、恐かったのです。
「なにが真実か?」の認識が変わってしまうと、人生の見方が変わり、人生で体感する感情が変わってしまうから。
私は、「認識が変われば、もう、ワクワク感やドキドキ感、ピンチやスリルにハラハラしたり・・が今までのようには出来なくなるかもしれない!」と恐くて、辛い人生に嘆きながらも、「なにが真実か?」の認識を長らく変えようとはしなかったのでした。
それは丁度、映画館でワクワク感やドキドキ感、ピンチやスリルにハラハラしたり・・したい人が、映画の世界に見入っている最中に、はっと我に返ってしまい「あぁ、これは映画か。」と冷めてしまう・・ことを恐れるのにも似ているのかもしれません。
つまり私は、幸福で平穏な人生を望みつつも、何十年間と{夢と気がつき平穏な夢を見る}覚悟はもてずにいて・・
心の深い部分では、「せっかく人生を見に来たのだから」ということで、たとえネガティブな感情を感じることになろうと、人生という名の夢に見入っていたかったのかもしれません。その方が刺激的だから。
映画に例えるならば、2時間ずっと、「これは映画だ」と気がついた状態で、ひたすら平穏が続く映画を見る気には、とてもなれず・・
「せっかく映画を見に来たのだから」ということで、たとえネガティブな感情を感じることになろうと、ホラー映画であっても見入っていたいものなのかもしれません。その方が刺激的だから。
現実の世界も夢の世界も、意識の投影/反映であるならば。
潜在意識(自分でも自覚できない深い部分の意識)が、なにを望んでいるか?ということも、現実の世界や夢の世界に、影響を与えるのかもしれません。
そして私達は、表面意識(表面上)では、「幸福で平穏な人生を歩みたいよね」と言いつつも。
潜在意識(自分でも自覚できない深い部分の意識)では、「せっかく人生を見に来たのだから」ということで、たとえネガティブな感情を感じることになろうと、人生という名の夢に見入り、ワクワク感やドキドキ感、ピンチやスリルにハラハラしたり・・と、していたいのかもしれません。
私達が映画館に行けば、「せっかく映画を見に来たのだから」ということで、たとえネガティブな感情を感じることになろうと、ホラー映画であっても見入ろうとするように。その方が、ワクワク感やドキドキ感、ピンチやスリルにハラハラしたり・・と、できるから。
<現実の世界も夢の世界も、意識の投影/反映であるならば>
2時間、ひらすら平穏な幸せな日々が続く映画など、退屈であるし、面白みに欠けるため普通は見ないのかもしれません。私なら、そんな刺激に欠ける退屈そうな映画、見ようとはしないように思います。
だけど・・
私はもう、早送りさせたいほどの辛く苦しい人生が、本当に嫌だった。
たとえ、平穏な幸せな日々が続く‘退屈そうな、面白みに欠けるよう思われる映画’と人生がなろうと、苦しみから抜け出せるならば、「それでも良い!それでも良いから・・人生を変えたい!」と思っていた。
{ハラハラやドキドキ、ピンチ、ライバルの出現でヤキモキ・・などの刺激溢れる面白そうな人生映画}を諦めても良いから、苦しみから抜け出したい!そう願っていた。
その必死な願望や、‘諦めの覚悟’は、「なにが真実か?」の認識を変える恐怖心を超えてしまう‘なにか’を、私に与えたようにも思われた。
ひたすら平穏な幸せな日々が続く人生映画を見ること自体は、それほどまで難しいことではなく、難しいのは、魅力溢れる、ハラハラ・ドキドキ・ワクワク、ピンチ、どん底、天国、スリル・・・などの刺激溢れる人生映画を諦める方なのかもしれない。
言い換えると。
私たちは、まだ{見入っていたい気持ち}を持っているのかもしれない。
本当の意味で目覚めてしまえば、「この現実世界はリアルだ!幻想なんかではない!私は、私という1個人であり、全てが同じ1つなどではない!もし私の期待が達成されなければ、私の人生は、あーなって、こーなって、あ~大変!どうしよう?そんなことになれば私は、幸せになれないじゃないか。私は私は私は私は・・」などと焦りつつ、ハラハラ・ドキドキ・ワクワク、ピンチ、どん底、天国、スリル・・・などの刺激溢れる人生映画から、少し離れてしまうことになるため。
ホラー映画を見ている人は、「もう、やだー」などと言いつつ、内心、見たいから見続けていて。
ホラー人生映画を見ていた私も、「もう、やだー」などと言いつつ、内心、見たいから見続けていたのかもしれない。
そしてどちらの人生映画を見るか?には、優劣の差はないのかもしれない。
見たい方を、見れば良いのかもしれない。
私は、修行を行う中で、途中からだんだんと、半無意識的に気づき始めていた。
このまま修行を続けていると、私は目が覚めてしまい、今までの人生で見てきたハラハラドキドキの人生映画を見ることができなくなる・・と。
「現実世界の中で、これは現実だ!と気づいてしまう」・・と。
そう、なんとなくわかり始めたとき、私は恐くなった。
その恐怖心は、諦めの覚悟の前に、消えていった。
そして、その諦めの覚悟は、個人的には「人生を早送りさせたい」と感じるほどの辛い苦しい人生経験によって芽生えた覚悟でもあったように思う。
<人間万事塞翁が馬。{長期的には、どうなることが最善か?}はわからない>
当時は、「どうして私の人生は、こうも辛いの!?」という苦しみや、不満や、イライラしかなかった。
そして、その絶望があったからこそ、魅力溢れるハラハラドキドキ人生を諦めることができ、また別の、違う人生を歩み始めることをさせて頂けることになったようにも、今にしてみれば思う。
人間の脳は、不確かなハラハラドキドキなどを望みがちだと、脳科学の本に書かれてあった。
そのため人間は、不確かなギャンブルを好むのかもしれない。
人生も、不確かなハラハラドキドキ人生の方が、「どうなるかわからないから、おもしろい!」という要素もあって惹かれるのかもしれない。
だからこそ、覚悟をもつことになる‘何か’がないと、不確かなハラハラドキドキ人生を諦めることは難しい場合もあるのかもしれない。
~人間万事塞翁が馬。{長期的には、どうなることが最善か?}はわからない。~
人生観が変わる本/書籍(「ザ・マネーゲーム」から脱出する法)では、そういった苦しむ段階を得て、また別の、違う人生を歩み始めることになる、と書かれていた。
そういったケースは、少なくはないのかもしれない。
・・と、口先だけで、私は理解は浅い上に、実践も出来ていない。
ただ、「もう残り数十年続く余生に関しては、ひたすら平穏が続く人生ドラマでも良いかな。(ハラハラドキドキはなくて良いかな)」という諦めの覚悟は、以前に比べれば・・だがある。
そのため。
思いどおりにいかないことや上手くいかないこともあるし、不満や悩みや問題が出てくるときもあるけれど、以前に比べれば・・・だが、現実世界に現われる諸現象も変わりつつあり、心の中の感情の揺れ動き幅も小さくなったようにも思う。
ひどく落ち込みイライラする機会も減ったようにも思う。
この変化は、もう、私の心の深い部分が、ハラハラドキドキ人生を諦めているから・・なのかもしれない。
そして心の深い部分が、本気で、ハラハラドキドキ人生を諦め、平穏や幸せのみを望み始めたから・・・(私にとっての)真実を、学び始めることになったのかもしれない。
物理的には、あまり以前と変わっているわけではない。
タイムスケジュールで見れば、
朝起きて仕事の日々。毎日、ただ、起きて仕事をしているだけ。
ただ、心の中の感情は揺れ動きの幅が小さくなったように思う。
昔のような人生に対する過度/過剰な期待がないから・・なのかもしれない。
ハラハラ・ドキドキ、劇的な何か、ミラクルのような幸運、挫折や挫折からの輝かしい復帰、ピンチやスリル、濃い人生劇、などは、特に期待していない。
平凡な日々が続く。
そして、それを心から望んでいるし、そんな平凡な日々に感謝するよう努めている。
関連→感謝の言葉/名言(【悪循環に落ち込む】→【好循環を作り出す】)
②楽しい幸せな人生を生きる~悲観的から楽観的な人になる方法~
■と、自分も理解が浅いのに、長々と押し付けがましい話を大変失礼致しました。
本当に理解されている方ならば、もっと友好的に、伝えたいことを伝えられると思うのですが・・。
なかなか修行が進んでおらず、1人よがりな話となってしまい申し訳ございませんでした。
なにはともあれ。
楽しい幸せな人生を生きていけると良いですよね。
最後まで、ありがとうございました。
~まとめ~
★悲観的から楽観的な人になる方法
→私達は、期待をするから、期待以下のことが起きた場合に{期待と現実のギャップ}により、ストレスやイライラを感じることになるのかもしれない。
そのため、期待をもたなくなればなるほど、{期待と現実のギャップ}による、ストレスやイライラは、減るのかもしれない。
★悲観的から楽観的な人になる方法
→しかし、期待をまったくもたなくなれば、ついつい、悲観的/ネガティブになりがち。
期待をせずに、楽観的でいるためには、人生観から、変えていく方法も、1つの方法なのかもしれない。
すなわち。
「そもそも人生とは何か?」という認識に関して、「リアル」と思い込めば思い込むほど、問題や悩みや心配事が深刻に思えてきて悲観的にもなりがちで。
「幻想」と思い込めば思い込むほど、期待をせずに、尚且つ、同時に楽観的でいることも可能となっていくものなのかもしれない。
★悲観的から楽観的な人になる方法
→私達は、本当は、心の深い部分では上記の話を知っているのかもしれない。
そして、知ったうえで、それぞれが、それぞれで、「どういった人生映画を楽しむか?」の選択をしているのかもしれない。
その選択には、どの選択を選ぼうと、優劣はないのかもしれない。
★悲観的から楽観的な人になる方法
→「どういった人生映画を楽しむか?」の選択が変わるキッカケが、人生の不幸や不運、人生のどん底・・である場合も、人によっては、あるのかもしれない。
魅力的なハラハラ・ドキドキの人生映画を諦めて、平穏な人生映画を見ようとするには、周りの目や、周りに人達との関係性もあり、‘覚悟’が必要となる場合もあるため。
~悲観的から楽観的な人になる方法~
<writer 名無き仙人>
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バス男「ふむふむ。楽観的になるためには寝ている最中にも思考を止めないこと・・と。なるほど、勉強になるな。(メモメモ)」
バス子「珍しくメモまでとってるみたいだけど・・バス男さん、間違ってるわよ?」
仙人「人生を楽しみながら、生きていけると良いのぉ。」
関連→相対的世界で生きる意味とは?名言(「相対性の罠にハマる」から「相対性の世界で遊ぶ♪」へ)
→人生/生き方わからないで迷う(私は自転車をこいだ)
→優しい穏やかな人になる方法(公園にて立ち止まる)
→幸せになる方法(‘幸せ/幸運’を感謝して受け取る)
→愛するの意味と愛される方法(自分にだけ向けられがちな愛を他者へと広げる)
→無意識と言葉と行動の関係(信念は行動を誘発する。そして行動によって信念は強化されいく)
→人生/生き方「迷わない指針」(繁栄原則と破滅原則)