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自己評価が低い人と高い人の違い

■自己評価が低い人と高い人の違い/特徴/自己評価を高めるには?方法/自己評価を高めたい/劣等感が強い人の特徴


自己評価が低い人と高い人の違い


バス子「は~ぁ。私って、自分に自信がないのよねぇ。自己評価を高めたいのだけど・・」

バス男「バス子ちゃんも僕のように、高い自己評価をもてるよう、もっと漫画に詳しくなれるよう努めなさい。」

バス子「な、なによー。バス男さんなんて、昼間っから漫画を読んでいるだけじゃない!・・でも、ある意味、羨ましいなー。バス男さんみたいな{勘違いな人}って。」

バス男「あれ、バス子ちゃんはまだ、仙人様の【自己評価が低い人と高い人の違い】の話を聞いていないの?」

バス子「仙人の【~自己を評価する基準(価値観)が、そもそも間違っている!?~自己評価が低い人と高い人の違い】の話?」

バス男「うん、仙人様が言うにはね・・・」







~自己を評価する基準(価値観)が、そもそも間違っている!?~

1.自己評価が低い人と高い人の違い

①夢の中でも劣等感を感じる

■チュンチュン・・小鳥の鳴き声とともに気がついたら、いつもの天井がありました。


「あぁ、夢だったのか・・」
夢であったことにホっと安心し、私はいつも通り歯磨き等、朝のルーティーンを始めながら・・ついさきほどまで見ていた ‘夢’ について考えていました。


あまり思い出せないけれど、高校野球時代の夢だったような・・

後輩がレギュラーとして試合で活躍する中、試合に出ることが出来ない私は夢の中で、後輩を応援しつつ、悔しさや、焦りを感じていて。

自分は、自分なりに頑張っているのに、どうしても上手くプレーできないし、監督にも認めてもらえず・・

最後に、後輩から笑顔で、なにか話しかけられて(質問をされて)、私は一応先輩として作り笑顔をしつつ、それに焦りながら答えて・・


うーん、よく思い出せません。
ただ、あまり良い気分の夢ではなく、夢であったことに私はホっとしたのでした。
また高校野球時代に人生が戻るなんて・・考えただけでも嫌になりました。


「そういえば、ゴルフの練習に行った日に、高校野球時代の夢を見ることが多いような・・」
よくよく考えてみると。
ゴルフの打ちっぱなしの練習に行った日に、高校野球時代の、もどかしい夢を見ることが多いようにも思われたのでした。
※もどかしい→ 思うようにならずいらいらする。じれったい。はがゆい。


私がゴルフの打ちっぱなしの練習に行けば。
自分なりには精一杯、頑張ってスイングしているものの、周りのゴルファー達よりボールが飛ばないのでした。
そのことは悔しくもあり、「どうして?私は全力でボールを打っているのに?」と、もどかしくもあり、「はぁ、私は駄目だな。」と劣等感を感じることでもあるのでした。

それは高校野球の時もそうでした。
自分なりには精一杯、頑張ってスイングしているものの、周りの野球部の皆より打ってもボールが飛ばないのでした。
そのことは悔しくもあり、「どうして?私は全力でボールを打っているのに?」と、もどかしくもあり、「はぁ、私は駄目だな。」と劣等感を感じることでもありました。


<自分なりには頑張っているのに、周りの人達のように上手くできない>
そのゴルフでの‘もどかしさ/悔しさ/劣等感’と、高校野球時代に感じていた‘もどかしさ/悔しさ/劣等感’が、心の深い部分ではダブっているから、ゴルフの練習に行った日に、高校野球時代の夢を見ることになっているのでしょうか。


「ふーむ。‘もどかしさ/悔しさ/劣等感’・・か。」
朝のルーティーンをしつつ、私の頭の中では【優れている/劣っている】について、思考が進んでいくのでした。



②価値観と自己評価と劣等感~自己評価が低い人と高い人の違い~
■本来、この世界には、「優れているかどうか?劣っているかどうか?」の絶対基準は、ないようにも思われたのでした。
この現実世界は、全てが比較によって認識される【相対的な世界】だから。

上か?下か?も、比べなければわからないようでした。

重力が存在する地球上にいると、地面(床)や、空(天井)があり、自分は基本的に重力の法則のままに足が地面(床)側にきて、頭が空(天井)側にいくため。
それらを相対的に比べ考えることをした結果、「あれは、下の方にある」とか「それは、上の方にある」とか認識することができるようなのですが、

スペースシャトルから真っ暗闇の無限に広がる宇宙空間に放り出されると、どっちが上か下かすら、わからなくなりそうに思えました。
宇宙空間では重力も、地面(床)や、空(天井)もないため、足がある方が下なわけでもないし・・否、そもそも‘下’という基準すらないし・・で、どっちが上か下かすら、わからなくなりそうに思えました。


つまり本来、上とか下とかの絶対基準は、ないのかもしれません。この世界は【相対的な世界】だから。


<絶対的な‘上’や‘下’というものはない。上や下があるように感じているのは錯覚>
絶対基準なき【相対的な世界】においては、優れているかどうか?劣っているかどうか?に関しても、絶対基準がないようにも思われました。

{優れている/劣っている}があるように感じているのは、ある特定の価値観を元に判断/ジャッジするために感じている錯覚にすぎないのかもしれません。

言い換えると。
絶対基準なき【相対的な世界】に生きる私達の場合、{優れている/劣っている}の感覚をもちたい場合・・{優れている/劣っている}の判断をしたい場合は、ある特定の価値観をもち、その価値観に基き分類するしかないようにも思われました。

通常、人は、無意識のうちに、本人も自覚なきうちに、ある特定の価値観をもっている・・否、持たされているため。
半無意識のうちに人は、他人や自分のことを「劣っているor優れている」と判断/ジャッジしているけれど、

もし、自分がなんの価値観も、もっていなければ、「劣っているor優れている」の判断やジャッジのしようも、ないのかもしれません。


自分の顔/性格を変える方法({心のあり方}と顔/性格の関係)にあるとおり。
私達は普段の生活の中で、視界に入ってくる他人を見ては「この人は優れているな。」「あの人は劣っている駄目人間だ。あんな人にはなりたくないよね!」などと、自分でも自覚なきうちに、無意識のうちに判断/ジャッジしているのかもしれません。

そのことは、私達が【なんらかの価値観をもっている(価値観をもっていなければジャッジ/判断のしようがないため)】ということを意味していそうです。

では、いったい、自分の中に、どんな価値観が潜んでいるから、他人や自分を見ては「上」とか「下」とか決めつけ、「劣っているor優れている」の判断をしているのでしょうか。



現実にそくして言えば、私達は【グループ内にて特定の価値観に基く相対評価を行っている】とも言えそうです。

例えば高校野球。
高校球児は、{野球時部}というグループ内に属し、{野球が上手な人間が優れており、下手な人間は劣っている}という特定の価値観を元に、自分と、周りの球児を相対的に比べることをしているようです。

だからでしょうか。
高校野球時代の私の場合は、{野球が上手な人間が優れており、下手な人間は劣っている}という価値観の元、{野球時部}というグループ内にて相対評価をした結果。
私はグループ(野球部)内で、相対的に皆より野球が下手であったため、「あぁ、私は劣っている駄目人間なのだ」と落ち込むことになったよう思われました。


しかし、です。
野球部にも属しておらず、{野球が上手な人間が優れており、下手な人間は劣っている}という特定の価値観も、もっていないクラスの女子からすれば。
「え?野球が下手で劣等感を感じ、落ち込んでいる?バカじゃないの?野球とか、どーでも良いじゃん。」と思うことにもなるかもしれません。


つまり、私が落ち込んでいた理由は、{野球が下手だから}では、なかったのかもしれません。
{野球が下手か?上手か?}で言えば、私はクラスの女子よりかは、上手だからです。

野球が下手であれば落ち込み劣等感を感じなければならないのであれば、クラスの女子など、どれほど強く劣等感を感じるか、想像もできません。彼女はグローブをどっちの手にはめるか?すら知らないのですから。否、「グローブって、なに?」状態なのですから。

私が落ち込み劣等感を感じていた理由は、{野球が下手だから}ではなく・・
私が、特定のグループ(野球部)に属し、特定の価値観(野球が上手な人間が優れており、下手な人間は劣っている)をもっていたから、なのかもしれません。


<グループ内にて特定の価値観に基く相対評価を行う>
私達は、ときに劣等感を感じて、悩み落ち込むこともあるのかもしれません。
ときに、低い自己評価をしてしまう場合もあるのかもしれません。
が、その理由は、【グループ内にて特定の価値観に基く相対評価を行う】からなのかもしれません。

具体的に考えてみます。
まずは、高校野球を例に「優れているか?劣っているか?」を見てます。


★高校野球における「優れているか?劣っているか?」
・グループの範囲 → 野球部内
・価値観 → 野球が上手な人間が優れており、下手な人間は劣っている

そのため、野球部に所属していた当時。
野球部内で相対的に野球が下手な私は「あぁ、自分は落ちこぼれの駄目人間なんだ」と落ち込み強く劣等感を感じていたのでした。


しかし、途中で野球部を辞めると、劣等感が薄れ始めたのでした。

「野球が上手かどうか?」によって優劣が決まるのは、{野球部}というグループ内における話であって。
辞めることにより{野球部}というグループから抜け出てしまえば、「野球が上手かどうか?」によって優劣が決まらなくなるからでしょうか。

現在の私は、「え?野球が下手で劣等感を感じ、落ち込んでいる?バカじゃないの?野球とか、どーでも良いじゃん。」と思うことになっています。


では次に、ゴルフにおける「優れているか?劣っているか?」を見てみます。

★ゴルフにおける「優れているか?劣っているか?」
・グループの範囲 → ゴルフをする人達
・価値観 → ゴルフが上手な人間が優れており、下手な人間は劣っている


そのため、ゴルフを始めている現在。
ゴルフをしている人達の中で相対的にゴルフが下手な私は「あぁ、自分は落ちこぼれの駄目人間なんだ。スコアも悪いし、ボールも飛ばない。」と落ち込み強く劣等感を感じているのでした。

しかし、です。
ゴルフとは無縁な人生を歩んでおり、{ゴルフが上手な人間が優れており、下手な人間は劣っている}という特定の価値観も、もっていないA子さんからすれば。
「え?ゴルフが下手で劣等感を感じ、落ち込んでいる?バカじゃないの?ゴルフとか、どーでも良いじゃん。」と思うことにもなるのかもしれません。

以前、ゴルフとは無縁の人生を生きていた私は「え?ゴルフが下手で劣等感を感じ、落ち込んでいる?バカじゃないの?ゴルフとか、どーでも良いじゃん。穴にボールを入れても仕方ないだろ?くだらない。」と思っていたのでした。

それなのに現在、ゴルフにて劣等感を強く感じることになっているのでした。

私がゴルフを始めたことにより、{ゴルフをする人達}というグループの中に入り込んでいくことになり{ゴルフが上手な人間が優れており、下手な人間は劣っている}という特定の価値観をもつことになったからでしょうか。


では次に、学校における「優れているか?劣っているか?」を見てみます。

★学校における「優れているか?劣っているか?」
・グループの範囲 → 中学生~高校生~大学生
・価値観 → 5教科のテストで良い点をとれる人間が優れており、5教科の問題を解けない人間は劣っている


学生時代は、{5教科のテストで良い点をとれる人間が優れており、5教科の問題を解けない人間は劣っている}という特定の価値観を共有するグループに強制的に詰め込まれるため。
私達は学生時代、5教科のテストで良い点がとれると優越感を感じることになり、悪い点しかとれなければ劣等感を感じることになるようです。

しかし、学校を卒業し社会に出ると・・学校というグループから抜け出すと、{5教科のテストで良い点をとれる人間が優れており、5教科の問題を解けない人間は劣っている}という特定の価値観も、もたくなるため。

学生時代に優等生であり優越感を感じていた人が、社会にでると劣等感を感じ始めることもあり、逆に、学生時代に落ちこぼれだった人が社会にでると優越感を感じる始めることもあるようです。

このような変化が起きる理由は、当人が変わったから、ではなさそうです。当人は、当人のままです。

ただ、所属するグループが{学生}から{社会人}に変わり、それに伴い共有する価値観が変わったから、優越感を感じていたのに劣等感を感じるようになったり、劣等感を感じていたのに優越感を感じるようになったり・・する場合もあるのかもしれません。


★自己評価が低い人と高い人の違い/特徴★
~私達は所属するグループの価値観次第で、優越感をもったり劣等感をもったり、している~


一般的に所属するグループが{社会人}になっていけばいくほど、価値観の重きが{勉強}から{恋愛}や{お金}へと変化していくことになるようです。


★恋愛における「優れているか?劣っているか?」
・グループの範囲 → 恋愛適齢期の男女
・価値観 → 異性にモテる人間が優れており、モテない人間は劣っている


私達は中学生以降、異性欲に突き動かされる形で、自ら{恋愛}というグループに足を踏み入れていくようです。

そして{恋愛}というグループでは{異性にモテる人間が優れており、モテない人間は劣っている}という特定の価値観を共有することになるからでしょうか。
女性からモテない私は「あぁ、自分は落ちこぼれの駄目人間なんだ。」と落ち込み強く劣等感を感じているのでした

しかし、です。
恋愛とは無縁な人生を歩んでいた小学生の頃、{異性にモテる人間が優れており、モテない人間は劣っている}という特定の価値観も、もっていなかった小学生の頃の私は。
「え?女子にモテないで落ち込んでいる?バカじゃないの?恋愛とか女子とか、どーでも良いじゃん。それより、近くの川に釣りに行こう!」と思っていたのでした。

それなのに現在、恋愛にて劣等感を感じることになっているのでした。

私が思春期以降、{恋愛}というグループの中に入り込んでいくことになり{異性にモテる人間が優れており、モテない人間は劣っている}という特定の価値観をもつことになったからでしょうか。


では、仕事/お金における「優れているか?劣っているか?」です。

★仕事/お金における「優れているか?劣っているか?」
・グループの範囲 → 成人以降の男女
・価値観 → お金持ち(高収入)の人間が優れており、貧乏(安月給)な人間は劣っている


私は高校生の頃、{お金持ちかどうか?}よりも{野球が上手かどうか?}で、人の優劣を判断していたのでした。
「あ、この人は野球が上手だから、すごい人だ!」というふうに。{どれだけ収入が多いか?}など、まったく気にもとめていなかったのでした。

それが社会人になっていくと。
私は、{良い職に就いているかどうか?収入が多いかどうか?}で、人の優劣を判断し始めるようになるのでした。
「あ、この人は収入の多いお金持ちだから、すごい人だ!」というふうに。
そして今現在は{野球が上手かどうか?}なんて、まったく気にもとめていないのでした。


つまり「すごい人/駄目な人」や、「優れている人/劣っている人」は、自分がもっている価値観次第で決まるものであり、自分の価値観が変われば、自分の中で「すごい人/駄目な人」や、「優れている人/劣っている人」も、変わることを意味しているのかもしれません。


小学生の頃の私にとって「すごい人/優れている人」は、たくさんの川魚を釣ることができる、近所の釣り名人の爺さんだったのでした。

高校生の頃の私にとって「すごい人/優れている人」は、野球の世界で活躍するプロ野球選手たちだったのでした。

社会人になった後、私にとって「すごい人/優れている人」は、高収入でお金持ちで、異性からもモテモテで、リッチな生活を楽しんでいる人なのでした。

そして、心の仙人/仙女修行や、心の修練など、各種の修行を始めてから私にとって「すごい人/優れている人」が、人間性や人格の面で優れる先生方に変わりつつあるのでした。
で、現在は{たくさんの川魚を釣ることができる近所の釣り名人の爺さん}のことを、まったく「すごい人/優れている人」とは思っていないのでした。


つまり、絶対基準なき【相対的世界】においては、絶対的な「優れている人/劣っている人」というのは存在しておらず。
自分がもっている価値観次第によって「優れている人/劣っている人」という‘幻想’が生じているのかもしれません。


★自己評価が低い人と高い人の違い/自己評価を高めるには★
~優劣は、己の価値観によって生じている、自分が創り出している幻想であり錯角。自分のことを「私は優れた人間だ!」と思っていようが「私は劣った人間だ」と思っていようが、それらも己の価値観によって生じている、自分が創り出している幻想であり錯角~


私達は、自分の{人としての価値}を、自らがもっている価値観によってはかっていて。
そのため、自分が変わらなくても、自分のもっている価値観が変われば、自己評価が「劣っている人間/駄目人間」から「優れている人間/すごい人」へと、変わることもあるのかもしれません。

どうして今現在、自分のことを「劣っている人間/駄目人間」と自己評価しているのだろう。
そう、自己評価することになっているのは、どういった価値観をもっているからなのだろう。

否、どういった価値観を ‘もたされているから’ なのだろう。

周りの人は、そうかもしれませんが。
自分までもが、その価値観を、もたされ続ける必要性やメリットは、あるのだろうか。



③価値観のコントロール~自己評価が低い人と高い人の違い/特徴~
■では、【グループ内にて特定の価値観に基く相対評価を行う】から自由になる方法を見てみます。


★グループを抜け出す

①物理的に抜け出す

→私は高校野球を途中で退部したのでした。
すると、劣等感が薄れていく経験をしたのでした。

この例は、物理的に所属するグループ(この場合は野球部)を抜け出すことにより【グループ内にて特定の価値観に基く相対評価を行う】から自由になる方法だとも言えそうです。

しかし、この{物理的に抜け出す方法}は、物理的にグループを抜け出しても、心が以前、囚われたままであれば、あまり意味をなさない場合もあるのかもしれません。

例えば、【異性からモテる人、お金もちな人ほど優れている】という価値観を、本当は、いまだ心の奥底でもっているのに。

逃避的に、アマゾンのジャングルや、ヒマラヤの山奥に物理的に移動しても、依然、劣等感を感じつつ、心の奥底では「あぁ、本当は日本社会の中で、モテモテで、金持ちな人生を生きたいのだが。」と悔やみつつ生きることにもなるのかもしれません。

つまり心が囚われたままであれば、物理的に抜け出しても、あまり意味がない場合も、あるのかもしれません。


②心の中で抜け出す
→だからこそ、心の中で抜け出すことができれば。
日本社会の中で普通に暮らしつつも、俗世間の中で普通に暮らしつつも、心まで俗世に流されることなく、自分は自分の価値観のもと、生きていくことが可能となるのかもしれません。

ただ、そのように、グループ内で共有されている価値観を放棄し、自分は自分なりの価値観をもつようにすると「名無き仙人は、まともでない!」などと、{グループ内で共有されている価値観}をもっている他者より批判されることもあるかもしれません。


・・私達は、ついつい、自分のことを「自分はまとも。自分が正しい。」と思い込んでいて、そのため、自分とは違う人のことが「まともでない人。間違っている人。」と見えてしまうからでしょうか。

また、<まともかどうか?正しいかどうか?>は、<多数派かどうか?>とも関係が深いようです。
詳細は常識と非常識/正しいまともな人とは?意味(相対性と自分の意見と他人の意見)にて。


★比較から自由になる
→アインシュタインの相対性理論は、私達が生きる現実の世界・・絶対基準なき【相対的世界】の中で、光速を絶対基準に公式化したものであり、有名な理論ですよね。

つまり、言い換えると、光の速さしか、絶対的な基準がないわけです。
私達が生きる‘現実世界’という世界は、絶対基準なき相対的な世界なのですね。

そして、だからでしょうか。
私達は、相対性の世界にハマり込んでいき、相対的に、自分と他人を比べ続けているため、優越感や劣等感を感じることになっているようなのです。

言い換えると、相対性の世界にハマり込み、相対的に、自分と他人を比べ続けているから、自分より優れているように見える人を見ては羨み妬み、足をひっぱり批判したり、自分より劣っている人を見ては内心、見下したり、しているようなのです。


★自己評価が低い人と高い人の違い/自己評価を高めたい★
~相対性の世界の中で自分と他人を比較し続けているから、他人を見ては「羨む/見下す」をし続けてしまう~


人類はもう、何千年と、そうし続けているのかもしれません。
科学も産業も発展してきては、いるけれど。

2000年前と変わらず、いまだに人類は、相変わらず、相対性の世界にハマり込み、相対的に、自分と他人を比べ続け、自分より優れているように見える人を羨み妬み足をひっぱり批判したり、自分より劣っている人を見ては内心、見下したり、し続けているのかもしれません。

科学も産業も発展してきては、いるけれど。文明は、高度に発展してきているけれど。
私達は相変わらず、心の自由は手に出来ておらず、2000年前と変わらず、心は相対性の原理に縛られたまま、他人を見ては「羨む/見下す」をし続けているのかもしれません。

心の科学が発展していないからでしょうか。

5教科の勉強するけれど、心の修練(心の統制)については行わないからでしょうか。


私達の幸福度は、科学や産業の発展のお陰で向上してきました。
そして私達の幸福度は、心の修練(心の統制)を行うことによって、さらなる高みへと向かっていくことになるのかもしれません。


★他者の幸せを願う
相対的世界で生きる意味とは?名言(「相対性の罠にハマる」から「相対性の世界で遊ぶ♪」へ)に詳細はあるとおり。
私達は、自分の幸せだけを願って生きていると【他人との比較の罠/競争社会の罠】にハマり込んでいき、イライラしストレスを溜めることになるのかもしれません。

そして私達は、他者の幸せをも願うことにより【他人との比較の罠/競争社会の罠】から抜け出し自由になっていくのかもしれません。

他人の幸せを心から願っている時。
そこに、「他人との比較によるイライラやストレス」は存在しないから。

相手の幸せを心から願っている時。
そこに「勝ちたい!という焦り/負けたくない!という不安」は存在しないから。


そして、他者の幸せを願えるようになるためには「認識の仕方」と「愛」とが関係するようでした。

①認識の仕方を変える
→{他人はライバル/競争相手である!}という世界観(思い込み)を潜在的にもっている場合。
他者の幸せを願うのは難しいようです。ライバルである他人の幸せはすなわち、自分の不幸せを意味するよう感じてしまうからでしょうか。

だからこそ、視界に入ってくる全ての他者を、全ての人を{大切な仲間である!}と見ること。

{他人は大切な仲間である}という世界観(思い込み)へと、己の世界観を浄化していくこと。

そのことも、他者の幸せを願うようになるためには、必要なことなのかもしれません。
私達は、{仲間}と認識している他者のことならば、愛しているから、幸せを願うことができるから。
関連他人の不幸より幸せを願うには?(愛を広げる/他人は仲間)
思い込みが激しい!癒しの心理学(世界観の事例と説明と癒し方)


また、人生は、他人と競い合うレースではないのかもしれません。
この‘レース’には、{決められた道}も、{ゴール}も、本来はないのかもしれません。

勝手に、私達が「これは競争なのだ。負けたくない!勝ちたい!」と思い込んでいるだけ・・否、思い込まされているだけでもあるのかもしれません。
詳細は人生/生き方わからないで迷う(私は自転車をこいだ)にて。


②愛を広げる
→ついつい自分にだけ向けられがちな愛を、他者へと広げること。
【愛する対象】を、{自分だけ}から、{全ての他者}へと広げていくこと。

そのことにより、私達は、愛する他者達の幸せを心から願えるようになるのかもしれません。
{自分の幸せ}については、心から願っているように。
関連見返りを求める愛とは?意味(愛を広げる/本当の愛を知る)


★原理原則に沿った絶対基準をもつ
→絶対基準なき【相対的世界】に生きる私達の場合。

自分の中で絶対基準がないと「自分は今、どうなのか?」がわからないのかもしれません。

自分は今現在、「恵まれているのかどうか?」「給料が多いのか少ないのか?」「幸せなのか不幸せなのか?」そういったことすら含め。
自分の中で絶対基準がないと「自分は今、どうなのか?」がわからないから、私達は、「自分は今、どうなのか?」を確認したくて、自分と他人の比較を始めてしまうのかもしれません。

そして「あの人は、あんなにモテているのに、
それに比べ私はまったくモテない。そうか。だから私は無価値な駄目人間なんだ」と思い、不幸な感情を感じることになり、劣等感をもつことになったり、

「Aさんは良いところに就職して年収も600万円なのに、
それに比べ私はまったく駄目。そうか。だから私は無価値な駄目人間なんだ」と思い、人生を嘆き、自己評価を低下させたり・・しているのかもしれません。


だからこそ。
他人との比較を辞めるためには、自分の中に、不変/普遍の原理原則に根ざした絶対基準をもち、その絶対基準によって自己評価をするよう努めることも必要となるのかもしれません。
詳細は自分の人生を生きるコツ(他人の意見」と「自分の意見」)にて。


★幸せを外的結果に依存しすぎない
→私達は、幸せを外的な結果に依存しすぎている場合ほど、競争原理に巻き込まれていってしまい、他人との比較に囚われていきやすいのかもしれません。

たとえば、ゴルフにおいても。
「(他人よりすごい)高スコアをとること」に、自分の幸せを、過度/過剰に依存している場合。
幸せになりたいから、他人に勝とうとし、プレー中も、他人のスコアばかり気になる状態となってしまうのかもしれません。

しかし、己の幸せを、外的な結果に依存しすぎる必要もないのかもしれません。
詳細は人生を楽しむコツ(ゴルフ場にて/内なるスコア)にて。



④自分で自分をどう評価するか?~自己評価が低い人と高い人の違い/特徴~
■私達は、自分の{人としての価値}を、自らがもっている価値観によってはかっていて。
そのため、自分が変わらなくても、自分のもっている価値観が変われば、自己評価が「劣っている人間/駄目人間」から「優れている人間/すごい人」へと、変わることもあるのかもしれません。


例えば、Aさん。
Aさんは、繁栄原則{正直/誠実/感謝/奉仕/謙虚/良心/他者の幸せを願う心}的な人のようでした。
そんなAさんは、大人になるにつれ、社会の荒波に飲まれ、周りの風潮に流され【異性からモテる人、お金もちな人ほど優れている】という価値観を持ち始めたようでした。

【異性からモテる人、お金もちな人ほど優れている】という価値観にて自己評価を行った場合。
Aさんは、異性からモテるわけでもないし、お金もちでもありませんでしたので、Aさんは、自分で自分のことを「あぁ、私は無能な無価値な駄目人間なのだ。」と思い始めたようでした。

そして、破滅原則{今さえ良ければ良いんだ/自分さえ良ければ良いんだ/金さえ手に入れば良いんだ}的に、異性や他人を、自分のために利用しつつ、上手いことやっているように見えるBさんを見ては、「あぁ、Bさんはお金持ちだし、恋人も途切れることがなく・・それに比べ私は、まったく駄目だな。」と劣等感をさらに強めているようでした。
関連他人を利用する人の心理と結末(自己防衛本能より危険な人間と見なされる)


そのようなAさんでしたが、あることをキッカケに、ある時期より。
周りに流されることなく、己の「繁栄原則が大切なのだ!」という信念に基き、原理原則を元に自己評価をするようになったようでした。

すると自己評価が「劣っている人間/駄目人間」から「優れている人間/すごい人」へと変わったようでした。
Aさんは元々、以前から{正直/誠実/感謝/奉仕/謙虚/良心/他者の幸せを願う心}という人間性の人だからでしょうか。

Aさん自身は、見た目も、職業も、恋人の有無も、銀行残高も変わっていないのでした。
しかし、自己評価が「劣っている人間/駄目人間」から「優れている人間/すごい人」へと変わったのでした。


・・変わったのはAさんの{見た目/職業/銀行残高/異性からモテるかどうか?}というよりも、Aさんの価値観であり、自己評価基準と、言えるのかもしれません。


通常、自尊心や自己評価は、努力し、結果を出した場合に高まるとされているようです。
しかし、結果の有無に関わらず、【価値観/自己評価基準】が変われば、自尊心や自己評価も変わる場合があるのかもしれません。

これらのことは、自分自身を評価する観点や、評価基準が間違っていると、無駄に劣等感をもつことにもなることを、暗示しているのかもしれません。


★自己評価が低い人と高い人の違い/自己評価を高めるには★
~自尊心や自己評価は、「自分をどんな価値観より評価するか?」によっても変わる~


そして、「異性からモテるかどうか?」や「お金もちかどうか?」は、外部環境(異性の好みや社会情勢etc)などにも左右されるようなのですが。

「異性からモテるかどうか?」や「お金もちかどうか?」は、他人との相対的な比較によって、決まりがちでも、あるようなのですが。

{繁栄原則に忠実であること}は、たんに、自分の中だけでの問題であり、自分をコントロールすることさえ出来れば、外部環境がどうであれ、実現することができるため。
原理原則を元に自己評価をする場合は、自尊心や自己評価が、自分でコントロールしやすくなるのかもしれません。

※例えばAさんが、異性からの評価で自己評価を行っている場合。
異性から「Aさんって、素敵だよね!」と噂されれば、自己評価が高まり、異性から、まったく相手にされなければ自己評価が下がることになりそうです。

そして{異性からの評価}は、コントロール出来ない部分も大きいのかもしれません。
人の好みは、人それぞれであり、人の好みはコントロール出来ないからです。

そのような、自分ではコントロール出来ない{異性からの評価}で自分の価値をはかる場合。
異性の気分や好み次第で、自己評価がコロコロと上下することになってしまうのかもしれませんし、もし、自分が異性の好みに沿わない場合は。
自分は一生、低い自己評価のまま生きていかねばならなくなるかもしれません。



⑤自分の価値は自分で決める~自己評価が低い人と高い人の違い~
■自分の価値を、他人からの評価・・例えば「貴方って、たいしたことないよね」「君は、まともじゃない変人だと思うよ。」など、他人から下される評価で、自分の価値を決める必要はないのかもしれない。

私達は子供の頃、自分の価値を親に決めさせてきた。
私達は学生時代、自分の価値を先生や、所属する部活の監督に決めさせてきた。
私達は現在、自分の価値を、上司や、異性に、決めさせてしまっている。

しかしもう、今後は、自分の価値を、自分で決めても良いのかもしれない。

今後は、自分の価値を、自分の中にある絶対基準に照らし合せて、決めて良いのかもしれない。

他人に、自分の価値を決めさせるならば。
私達は、自己評価を高めたい気持ちから、他者より高評価されたくて・・・常に、「他者から、どう思われるだろうか?」ばかりが気になり、他人の目を伺いながら、他人に合わせて、【他人が自分に望んでくる人生】を生きることにもなるのかもしれない。

が、今後はもう、自分で自分のことを評価すること。
自分の価値を、自分の中にある絶対基準に照らし合せてはかり、【自分が自分に望む人生】を生きても良いのかもしれない。

私達が【自分が自分に望む人生】を生きれば。
周りの人達は「そんな自己中心的な生き方をするなんて最低だな!」と批判してくるかもしれない。

が、人は{自分のして欲しいことをしてくれない他者に対して、「あの人は自己中だ!」と批判する}わけで。

そして、人はそれぞれ、好き勝手‘私達’に対して「貴方は右に行きなさい」、「いいや、貴方は左に行くべきです」などと、利己心から、もしくは無私の好意から、言ってくるわけで。

だからこそ、なにをしても、なにをしなくても、どちらを選んでも、必ず、誰かからは批判されるわけで。
※人は{自分のして欲しいことをしてくれない他者に対して、「あの人は自己中だ!」と批判する}から。


そのため、批判を過度/過剰に恐れることはなく、他者の意見には敬意をもって謙虚に耳を傾けつつも、自分は、自分の中にある絶対基準に照らし合せて自分の価値をはかり、【自分が自分に望む人生】を生きても良いのかもしれない。



「そうだよね。そだから自分は自分で、自分の揺るぎない価値判断基準により、自分のことを評価してあげるようにしよう。」
頭の中で行われていた【優れている/劣っている】に関する話が、そう最終的には結論され。
ベランダにいた私は、「私は、野球は下手だけど、グランド整備や球拾いに関しては詳しいんだぞぉ!」と1人、自慢げに早朝の爽やかな空に向かって呟いたのでした。


・・私は野球は下手だし、ゴルフも上手くないのでした。

だけど、今後はもう、そういったことで、自分のことを自己評価するのではなく。
【繁栄的な原理原則に忠実に生きているかどうか?】によって、自分のことを自己評価できれば良いかな、とも感じているのでした。


「よし、今日も1日、繁栄原則に忠実であることができるよう、自分なりに頑張ろっと。」
明るい声でそう言い、部屋内に戻り、パソコンの前に座って仕事にとりかかり始めました・・。



~まとめ 自己評価が低い人と高い人の違い~
①「優れている/劣っている」なんて、所属するグループの価値観次第で、コロコロと変わる、その程度のもの・・その程度の話にすぎないのかもしれない。

私達は、宇宙人とは関わりがないため、{地球/地球人}というグループに属している。
そのため、{地球に住む人間}というグループの中で、共有されている価値観に基き、地球上の人類皆を相対的に比べ評価し「あの人は優れている/その人は劣っている」と、自分が、もしくは自分以外の皆が、そう判断しているだけでも、あるのかもしれない。

具体的に言えば、「お金をどれだけもっているか?」や「どれだけスタイルの良い体と整った顔立ちをしているか?」といった価値観に基き、地球上に生息するhumans(人類)を相対的に比べ合い、「あの人は優れている/その人は劣っている」と、格付けし合っているのかもしれない。そのことを否定する必要はないが、自分までもがお付き合いする必要はないのかもしれない。

※共有される価値観も時代とともに移り変わる。日本でもインドでも、昔はふくよかな女性の方が高く評価されていた。
今現在、共有されている価値観も、将来的には変わっていることだろう。
コロコロと変わる基準(価値判断基準)に付き合い、振り回される必要もないのかもしれない。

が、「皆から認められたい!」という承認欲求が強い場合は、周りからの評価を気にしてしまうこともあるかもしれない→自己顕示欲と承認欲求を抑えるには(承認欲求からの自由)


②この世界は相対性の世界であるため。
大多数が言う意見が「まともな意見/常識ある意見/正しい意見」と、客観的には、なるところがあるが。

大多数が共有する価値観が「まともな価値観/常識ある価値観/正しい価値観」と、客観的には、なるところがあるが。

{なにを正しいとするか?}を、周りに流されることなく、自分で選び、自分で決めても良いのかもしれない。

まるでプログラミングされている機械やロボットであるかのように、

5教科のペーパーテストの点が悪い人間 → 駄目人間
モテない人間 → 駄目人間
貧乏人 → 駄目人間

と、反応しなくても良いのかもしれない。
関連感謝の言葉/名言(【悪循環に落ち込む】→【好循環を作り出す】)


「本当に、5教科のペーパーテストの点が悪い人間が、駄目人間なのだろうか?」と、自分の頭で、考えてみること。

「5教科のペーパーテストの点が良い人間は、単に5教科に関する暗記量が多いだけで、テスト内容が{他の内容}に関する内容になれば、私の方が、良い点とれるんじゃないか!?なぜ、国語、数学、理科、社会、英語という、狭い範囲の暗記量で、人間の価値をはかろうとしているのだ?」と、自分の頭で、考えてみること。


そのことによって、私達は、心や、思考の、自由を取り戻せることになるのかもしれない。
言い換えると、そう、自分の頭で考えることによって、【詰め込み暗記主義教育/ハイと返事し従う人間に高評価が下される教育】によって失われていった「自分の頭で考える力」を取り戻せることになるのかもしれない。


私達は子供の頃より、「ハイと返事し従う人間に高評価が下される環境」にて生きてきている。家庭も学校も、会社に入った後もそうだ。

だから、自分の頭で考えることなく、言われたことを「はい!」と返事し、鵜呑み的に取り入れる傾向にあるのかもしれない。価値観も含めて。

その、現在、自分がもっている価値観は、自分で吟味し選び、自分で能動的に持つにいたった価値観だろうか。
それとも、鵜呑み的に取り入れた価値観だろうか。

なぜ、私の頭は「自分の頭で考える」を放棄してしまっているのだろう。
いつから、私は、「自分の頭で考える」を放棄し始めてしまったのだろう。

どうして、「答えは教えてもらえる」と思い込むようになってしまっていて、「自分にとっての答えですら、自分で考える」をしなくなってしまっているのだろう。
そしてそのせいで、悩み苦しむことになっているのだろう。

学校でも会社でも、答えは先生や上司が教えてくれて、その答えに異議を唱えれば煙たがれ、だから「自分の頭で考える」を放棄し始めることになったのだろうか。

そして「自分の頭で考える」を放棄することは、自分にとってメリットあることだろうか?デメリットあることだろうか?




どうして、「「自分の頭で考える」を放棄することは、自分にとってメリットあることかどうか?」すら、自分の頭で考えることなく、誰か、偉い肩書きをもっている人から「答え」を教えてもらおうとしてしまうのだろう。
そう、{自分の頭では考えない→答えを誰かから聞く}よう洗脳されているのだろうか?それとも、そうするよう、自分で吟味した結果、決めたのだろうか?


みんなが、自分の頭で考えずに、ただ「はい!」と返事し、従うことは、誰にとって都合の良いことなのだろうか?

戦時中の国の偉い人達にとってだろうか?兵隊が上官の命令に対して、毎回毎回、「えー、でも上官。多分、左から攻めた方がいいっすよ。右から攻めるとか、効率悪いっすよ。」といえば、困るから。
大企業の偉い人達にとってだろうか?社員が「えー、でも上司。多分、B社から営業に行った方がいいっすよ。A社から営業に行くとか、効率悪いっすよ」と言えば、困るから。

そして、自分の頭で考えずに、ただ「はい!」と返事し、従うよう教育する【マス教育】は、いつの時代に、どんな時代背景があって、始まったのだろう?


なにが良いか?悪いか?は別として。

どんな教育が良いか?悪いか?は別として。

指示に従うことが良いか?悪いか?は別として。


「自分の頭で考えてみる」ということは、もしかしたら、必要なことでもあるのかもしれない。


そして私達は誰であっても、自分の価値観や、自分にとっての自己評価基準、自分にとっての答え・・を、自分の頭で考えて、見出していくことが出来るのだと思う。
私達は皆、尊い存在だから。
※そう考える根拠エネルギー問題の解決策(人間や現実の正体)


私はそう、信じています。

ともに楽しみながら精進してまいりましょう。


~自己評価が低い人と高い人の違い|自己評価を高める方法~
<writer 名無き仙人>


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バス男「自己評価が低い人と高い人の違い|自己評価を高める方法かぁ。」

バス子「高い自己評価をもって生きていけると良さそうね。」

仙人「自分で自分のことを評価しながら、楽しい幸せな人生を生きていけると良いのぉ。」







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