常識と非常識/正しいまともな人とは?意味

■非常識/常識的な人とは?意味。正しいまともな人とは?意味。常識がない人と常識がある人の違いとは?


常識と非常識/正しいまともな人とは?意味


バス男「はぁ。僕って雰囲気イケメンだから、みんなから嫉妬されてしまって・・」

バス子「バカじゃないの?バス男さんの、どこが雰囲気イケメンなの?自分を客観視したら?」

バス男「むっ!なんて失敬な。バス子ちゃんは‘まともな人間’ではない変人かもしれないよ。大丈夫?」

バス子「なっ!バス男さんこそ、変人じゃない。」

バス男「むむ、バス子ちゃんは、仙人様の【常識と非常識/正しいまともな人とは?意味】の話を、まだ聞いていないの?」

バス子「仙人の【~「常識/非常識/正しい/まとも/変わり者」の真実~常識と非常識/正しいまともな人とは?意味】の話?」


バス男「うん、仙人様が言うには・・」







~「常識/非常識/正しい/まとも/変わり者」の真実~

1.常識と非常識/正しいまともな人とは?意味

①自分が正しい?

■「ほんっと、困るよなぁ。「自分が正しい」と思っている人は!」

友人のA君は、どうも、自分だけが正しいと思っている人のようで・・

A君とは違う私の意見を、まったく認めようとはしないし、私がA君の意見を否定すれば「名無きは俺の敵だ!正しい俺の意見を否定するなんて絶対に許せない!」とばかりに、私に対して「いかに俺の意見が正しいか?」を理論がましく押し付けてくるのでした。

私は、A君との「どちらの意見が正しいか?」の言い争いが嫌になって、途中から「私の意見が正しい!」と主張するのは辞めたのですが・・


A君と別れた今尚、腹立たしい気持ちでいたのでした。


「どう考えてみても、悪いのはA君の方だよね。私は、もともだよね?」
イライラが収まらない私は、パソコンを立ち上げ、ネットで【自分 正しい】と検索してみました。

すると、多くの人が、「自分が正しい」と思っている友人や同僚、または伴侶に、私と同じように手を焼き困っているようでした。
質問サイトでは「自分だけが正しいと思っている人には困りますよね。そういった{自分のことが客観視出来ていない自己中心的な人}とは、距離を置くのが良いですよ。」などのアドバイスが多数寄せられていました。


「ほら。やっぱり、悪いのはA君だ。まともなのは私の方だ。」
ネット上で、皆の意見を確認し、私は少し安心感を得たのでした。
やっぱり、まともなのは私の方で、おかしいのはA君の方で、あるようだったからです。


「自分が正しい!と思い込んでいる{自分のことが客観視出来ていない自己中心的なA君}には困るよなぁ。A君も私を見習い、まともな人間になってくれれば、良いのだけど・・。」
内心、「自分が正しい!と思い込んでいる{自分のことが客観視出来ていない自己中心的なA君}みたいな‘痛い人/迷惑な人’だけには、なりたくないよね。」とも思いながら、私は、「自分はまともで良かった~♪」と思っていると、、、





名無き君。
「自分はまともな人間である」と思っていると、自分とは違う他者のことを「正常ではない‘おかしな人’」と、内心見下し始め・・そのため【相対性の罠】にハマり込んでいき、自分自身を、{不自由な世界}に縛り付けてしまうことにも、なるのかもしれないよ。


「え?どういうこと?」

つまりね、「自分はまともな人間である」という思考の裏には、「自分とは違う人間は正常ではない」という考えが潜んでいるのかもしれないんだ。


★常識と非常識/正しいまともな人とは?意味★
~「自分はまともな人間である」と考えると、自分とは違う{考え/意見}をもつ他者のことが、「まともでない人間」に思えてくる~


だから、「自分はまともな人間である」と思い込んでいると、‘まともな自分’とは違う意見をもち、‘まともな自分’とは違う考え方、感じ方をする人のことが{正常ではない変人}に思えてきて。
内心見下し始め、そのため【相対性の罠】にハマり込んでいき、自分自身を、{不自由な世界}に縛り付けてしまうことにも、なるのかもしれない。


「ぅん?でも、私は、まともな人間だよ。まともじゃないのは、どう考えても、どう客観的に見ても、A君の方だよ。」

うん、うん。そう感じるよね。

そしてね、相対的世界で生きる意味とは?名言(「相対性の罠にハマる」から「相対性の世界で遊ぶ♪」へ)にもあるとおり、この世界は相対性の世界であって。

絶対基準なき相対性の世界において、「まともか?」「正しいか?」の判断は、相対性の世界の中での相対的基準にすぎないのかもしれない。


だからこそ。
相対的な基準にすぎない「まともか?」「正しいか?」の判断に囚われることなく、【相対性の罠】から抜け出し、大切な仲間である他者(A君)のことを、尊重する態度をもつのも、悪くはないのかもしれないね。


「「まともか?」「正しいか?」は、絶対基準のない、相対性の世界の中での相対的基準?どういうこと?」

アインシュタインの相対性理論は、この絶対基準のない、相対性の世界の中で、光の速さ(光速)を絶対基準にする理論であってね。
だからこそ、アインシュタインの相対性理論は、【相対性の世界の中に絶対的基準を簡潔な公式により示した】という意味で、すごい発見であり理論であり、とても有名なのだけど。

しかしアインシュタインの相対性理論が発表された後でも、私達は、やっぱり未だに、普段の日常生活の中では。
絶対基準のない、相対性の世界の中での相対的基準・・つまり他人たちの意見を基準に、物事の判断を行っていて・・


「えぇ?話の意味が、まったく、わからないのだけど?」

ごめんね、例えばだよ。
名無き君が今日の夜、UFOを見たとするね。
これは話上の仮定ではなく、本当に、UFOを見てしまった!と思って欲しいのだけど。

夜空に浮遊するUFOを見てしまった名無き君は、当然、びっくりするよね!「UFOって、実在するんだ」と。

で、UFOを、この目で、本当に見てしまった名無き君は、びっくりして友達に「私、この前、本当にUFOを見てしまったんだ。UFOって、実在するんだね!」と言うことになるかもしれない。

すると、友達からは「はいはい、嘘をつくのは辞めろよ。」とか「名無きはムフフな動画を視聴しすぎて疲れており幻覚でも見たんだよ。」などと言われることになり、友達からは{自分の見た現実}を、{自分の知っている現実}を、{自分にとっての現実}を、認めてもらえないんだ。

でも、名無き君は、本当に、この目でUFOを目撃したのだよ。どうする?


「うーん。・・自分以外にも、UFOを本当に目撃した人がいるか?を確かめようとするかな。つまり、UFOの実在性を確かめようと、すると思う。」

そうだよね。
ネットで【UFO 見た】と検索し、自分と同じように、本当にUFOを見てしまった人がいるか?を、確認しようとするよね。
言い換えると、{自分の見た現実}の、{自分の知っている現実}の、{自分にとっての現実}の、信憑性を確かめようとするよね。


つまりね。
絶対基準のない、相対性の世界の中で、‘自分’という狭い{枠/自我}からしか、物事を見る以外に方法がない私達の場合は、「なにが現実か?」すら、他者との意見の一致に頼らないといけない側面もあるのかもしれない。

私達1人1人が経験している{現実}は、幻想や錯誤や虚構の可能性があるため。
「なにが本当の現実か?」に関しては、複数の人々の経験的現象の一致であったり、同じ現実を人々が共有していることが、必要となってしまうのかもしれない。


この場合、名無き君は「UFOを見た!UFOは実在するのだ!」と思っているのだけど。

どんなに自分が正しい!と思っても、しょせんは自分一人の現実であり、自分1人の意見であり、自分だけの立場、価値観に基づいたものに他ならず・・

「なにが本当の現実か?」に関して、皆が{同じような現実を体験しているか?}を確認せねば、ならないわけだ。


だから私達は、「自分が正しいかどうか?」に関しても、信頼できる他者に話したり、ネットで皆の意見を調べてみたり・・とすることで、確認しようと、するのかもしれないね。
他人や、皆の意見との一致によってしか、客観的な「正しいかどうか?」の判断は、なしえない側面もあるから。

他人の経験や、皆の経験との一致によってしか、客観的な「なにが本当の現実か?」の判断が、なしえない側面もあるから。


「じゃあ、だから私は、{自分とA君とでは、どちらが正しいのか?まともなのか?}を、ネットで調べようとしたのかな?」

そういった側面も、あったのかもしれないね。

私達は、「他人の気持ちになって考える」などと言う機会もあるけれど。
それは結局、自分の想像する「他人の気持ちは、きっと△△であろう」にしかすぎず・・生まれてから今の今まで‘自分’という狭い{枠/自我}からしか、この世界を見たことがないから・・

「なにが本当の現実か?」について、他人の経験や、皆の経験との一致を確認しようと頑張るし、

また、自分の考え、自分の振る舞いが、「正しいかどうか?」「まともかどうか?」「常識的かどうか?」についても、「みんなは、どう考えているか?思っているか?」を確認せねば、ならないのかもしれない。



だからUFOを目撃した人は、ネットで確認をすることになるようだね。

グーグルのデータによると「UFO 見た」の検索回数は月間170回のようだよ。

だから自分の意見をまったく認めてくれない他者と遭遇すると、私達は「正しいのは、まともなのは、自分の方よね?悪いのは、Aさんの方でしょ?」と思い、ネットで確認をすることになるようだね。

グーグルのデータによると「自分 正しい」の検索回数は月間1300回のようだよ。


「どちらが正しいか?まともか?」すらも、この相対性の世界の中では。
他人の意見や、皆の意見との一致によってしか、客観的な「正しいかどうか?」の判断が、なしえないから・・なのかもしれないね。


「いや、でも{正しいかどうか?}は、普通は確認しなくてもわかるし、UFOなんて、存在しないに決まっているでしょ?議論の余地はないよ。」

そう感じるよね。
そしてね、もし、自分以外の皆が「UFOを見た!UFOは実在するのだ!」と言っていたら、UFOは実在することになるのだろうか?

TVや新聞でも、UFOの存在について当たり前のように話されており、また周りの人達も「えぇ?名無きは、UFOを見たことないの?今時、珍しいな。」と言ってくるのだよ。
そう、皆が言うのだよ?

そのような状況であれば、名無き君は、どう判断する?


「う、うーん。「自分は見たことないけどUFOって、実在するんだ!」と、思うことになるかな。」

そうだよね。皆が、そう言うのであれば、そう思うことになりそうだよね。


そして、これらは、【自分の意見と他人の意見、どっちが大事なんだ?】という話でも、あるのかもしれない。

自分はUFOを見たのに、他者達が{UFOなんて実在しないよ!}と言うために、「そっか。やっぱりUFOなんて実在しないよね。じゃあ、私が見たのは、幻覚だったのかな?(うーん。でも本当に見たのに・・。)」と思うのであれば、「他人達の意見に流されている」とも、言えなくはないのかもしれないね。
別の見方をすれば、「もしかしたら、自分も間違っているのかもしれない」という謙虚さが、あるわけだけど。

逆に、自分はUFOを見ていてね。
他者達は{UFOなんて実在しないよ!}と言うのだけれど、「いいや、他人がどう言おうと、私は本当に、UFOを見たのだ!」と思うのであれば、「他人達の意見に流さず、自分の意見を大切にしている」とも、言えなくはないのかもしれないね。
別の見方をすれば、「もしかしたら、自分も間違っているのかもしれない」という謙虚さが、欠如しているのかもしれないけれど。


「なんだか、こんな話を聞いていると、「なにが本当の現実か?」や、「なにが正しいのか?」などが、わからなくなってくるな。」

そうだね。
そして、その理由も、この世界が絶対基準なき相対性の世界だから・・なのかもしれない。


例えばね。
この地球上にいる皆が、A君のような人ばかりなら、名無き君がまともじゃなくなるのかもしれないよ。
名無き君が一生懸命に「え?だって、自分が正しい!と思い込んでいる{自分のことが客観視出来ていない自己中心的な人}の方が、おかしいでしょ?明らかに!」とアピールしても。

この地球上にいる皆が、A君のような人ばかりなら、名無き君は皆から「いいや。私達がまともで正しいのです。おかしな変人は、名無きさん、貴方の方です。」と言われ、誰も名無き君が「正しい!まとも!」とは、認めてくれないかもしれない。

だから、【承認欲求を諦めなさい】ということなんだ。


今、この世界では、「自分だけがまとも」と思っている人を、冷ややかな目で見る人達も多数いるから、「あ、やっぱり私がまともで、悪いのは、おかしいのは、変なのは、自分が正しい!と思い込んでいる{自分のことが客観視出来ていない自己中心的なA君}なんだ。」と確認することが出来るし、周りの人からも「名無き君の方が正しいよ。」と認めても、もらえるかもしれない。

でもね、もし、この世界には「自分だけがまとも」と思っているA君のような人ばかりで、「自分だけがまとも」と思っている人を冷ややかな目で見る人達がいなければ。
名無き君は「自分がまとな人間だ!」ということを、周りの人達との意見の一致によって、確認することが出来ないわけだ。


その場合、名無き君は、自分で自分のことを、どう評価する?

それでも自分がまともだ!と判断する?
そうしたら、今現在、自分がまとも!と思っているA君と同じことになるのかもしれないよ。

名無き君は、周りの人達から「名無きさんは、自分のことが見えていない{自分の意見を曲げない変な人}{自分が間違っていることを認めない自己中な人}」と、冷ややかな目で見られることになるのかもしれないね。

この場合。
もし、名無き君が、他人の意見に流される人であれば「あれ?じゃあ、間違っている変な人は、私の方か・・。」と思うことになるのかもしれない。
そしてもし、名無き君が、他人の意見より、自分の意見を大切にする人であれば「いいや、周りがどう言おうと、明らかに{正しいまともな人間}は、私の方だ!」と思うことになるのかもしれない。


「うーん・・。」

絶対基準なき相対性の世界において、「まともか?」「正しいか?」の判断は、相対性の世界の中での相対的基準にすぎないのかもしれないね。
これは「常識」に関しても、そうかもしれない。

だから、「まとも」「正しい」「常識」も、時代とともに、移り変わるのかもしれない。それらは相対的基準にすぎないから。

例えば戦時中は。
戦争を行うことが、「まとも」「正しい」「常識」であったようだね。

だからもし戦時中に、名無き君が「戦争なんて愚かすぎるよ。平和最高!今すぐ戦争を辞めるべきだ!まともであり、正しいのは、私だ!」とアピールしても、周りの人達からは「常識のない非国民め!」と、冷ややかな目で見られることに、なったのかもしれない。

しかし現在、戦争を行わないことが「まとも」「正しい」「常識」に変わっているよね。
だから現在、名無き君が「戦争なんて愚かすぎるよ。平和最高!まともであり、正しいのは、私だ!」とアピールすれば、周りの人達からは「そうだ、そうだ!」と、認めてもらえることになるよね。


この場合。
名無き君の意見は、「戦争なんて愚かすぎるよ。平和最高!」であり、変わっていないんだ。
変わったのは、「まとも」「正しい」「常識」の方であり、変わったのは、自分以外の、他者達の意見の方なんだ。

つまり、「まともか?」「正しいか?」「常識か?」に関する客観的判断基準は、自分以外の、他者達の意見によって、決まっていくものなのかもしれない。


★常識と非常識/正しいまともな人とは?意味★
~「まともか?」「正しいか?」「常識か?」に関する客観的判断基準は、自分以外の、他者達の意見によって決まっていく~


絶対基準なき相対性の世界において、「まともか?」「正しいか?」「常識かどうか?」の判断は、相対性の世界の中での相対的基準にすぎず、
「まともか?」「正しいか?」「常識かどうか?」の客観的判断基準は、自分以外の、他者達の意見によって、決まっていくのかもしれないね。

そして、他人の意見は移り変わるから、「まともか?」「正しいか?」「常識かどうか?」の客観的判断基準も、移り変わることに、なりそうだよね。

だからこそ。
「自分は、まともな人間だろうか?常識的な人間だろうか?大丈夫かな?」と心配しつつ、「私って、まともな常識人でしょ?」と、周りの人達に認められたいがために、周りの目や、他者達の意見を伺いながら一生懸命にアピールしながら生きていると。
移り変わっていく他人たちの意見に、人生が、振り回されてしまうことにも、なる場合があるのかもしれないね。


「じゃあ、「まともか?」「正しいか?」「常識があるかどうか?」の判断基準には、自分基準(自分の意見)と、客観的判断基準(他人達の意見)との、2種類があるわけか。そして、周りに振り回されないためには、自分基準(自分の意見)を大切にする必要がある・・。」

うん。
しかしね、自分基準(自分の意見)を大切にするばかりで、謙虚な心「もしかしたら自分も間違っているのかもしれない。相手も、正しいのかもしれない。」を忘れてしまうと、それはそれで、また問題でも、あるのかもしれないね。


「え?どういうこと?」

詳細は、意見の対立を解決する方法(第3の案 成功者の選択/レビュー)にあるのだけれど。

例えば、以下の空き缶を見て、

「これは、紛れもなく、{事実空き缶}だ。どう見ても{事実空き缶}だ!」と思うよね。
理由もなにも、ないよね。
どう見ても、{事実空き缶}なのだから。

それなのに相手は、「いやいや、この空き缶は{嘘空き缶}だよ。」と、言う場合もあるのかもしれない。

そのような時、謙虚な心を忘れていると、私達は「どうして、相手は自分の間違いに気がつかないかなぁ。困るなぁ。どう見ても{事実空き缶}じゃないか。私の正しい意見を、なんとかして相手に納得・理解させなきゃ。」と、思考が進んでしまうかもしれない。

こうなると、
自分→「これは、どう見ても{事実空き缶}だろ?間違いを認めろよ。」
相手→「は?これは{嘘空き缶}だよ。貴方こそ、間違っているよ。」
と、言い争いになるばかりで、その後に私達は、「あの人は、間違っているクセに、自分の誤りを認めず・・自分だけが正しいと思っている人は困るよね。」などと、相手を批判することになるのかもしれない。


でもね。
私達は、互いに同じ事実を見ているのに、2人には、違うように事実が見えており・・・尚且つ、その2人が見ている事実、両方ともが正しい、、、ということも、あるのかもしれない。

【2人には、違うように事実が見えており・・・尚且つ、その2人が見ている事実、両方ともが正しい】

そんなことは、ありえるの?とも思うのだけれど。

どうも、ありえる!ようなんだ。
だからこそ、謙虚な心を思い出し「自分だけが正しいのではないかもしれない。相手も、正しいのかもしれない。」と、{自分だけが正しい!相手は間違っている!}という己の考えを、疑って・・

{事実空き缶}を、上図のように、少しづつ右にまわしていくと・・

なんと、裏側から見ると、どう見ても{嘘空き缶}にしか、見えなかったりすることがあるのかもしれない。


<2人には、違うように事実が見えており・・・尚且つ、その2人が見ている事実、両方ともが正しい>
私達は、ついつい、「自分はまともな人間である」「自分が正しい」と思い込んでいて。
そして、その思考の裏には、「自分とは違う人間は正常ではない!つまり自分とは違う人間は間違っている!」とも、思い込んでしまっていて。

そこに、謙虚さの欠如した自分基準(自分の意見)を大切にする姿勢が加わると。

自分とは違う、相手の見方や、相手の考え方、相手の判断、相手の感じ方などを、受け入れることが出来なくなってしまうのかもしれない。

なぜなら、謙虚さの欠如した状態での「自分はまともな人間である」という思考回路においては、自分とは違う相手は、{間違っている愚か者}であるから。
いちいち{間違っている愚か者}の、見方や、考え方、判断、感じ方などを、理解しようとは思えないよね。

だから、謙虚さの欠如した自分基準(自分の意見)を大切にする姿勢でいると、自分とは違う{考え/意見}をもつ他者の話を、聞こうとは、しなくなるのかもしれない。
自分とは違う他者は、{間違っている愚か者}であり、{間違っている愚か者}の話なんて、聞く価値はない!と思うことになるものね。


でも、【2人には、違うように事実が見えており、尚且つ、その2人が見ている事実、両方ともが正しい】ということが、ありえるのであれば。

自分だけが、正しいわけでは、ないのかもしれないし、相手も正しいのかもしれないわけで・・

だからこそ、自分基準(自分の意見)を大切にしつつも、謙虚な心「もしかしたら自分も間違っているのかもしれない。相手も、正しいのかもしれない。」も、忘れずにいるのも、良いのかもしれないよね。


「うーん・・。」

みんながね、事実空き缶を、正面側から見ていれば、「この事実空き缶は、事実だ!」ということが、「正しい意見」「まともな意見」「常識的な意見」となるわけだ。
「まともか?」「正しいか?」「常識か?」に関する客観的判断基準は、自分以外の、他者達の意見によって決まっていくから。

だからね。

もし、名無き君が偶然、事実空き缶を裏側から見ている場合、いくら「いいや、この事実空き缶は、嘘だ!」と言っても、誰も認めてくれないかもしれない。
皆が自分のことを認めてくれないばかりか、冷ややかな目で見られ、「名無きは、キチガイだな!」とすら、言われるかもしれない。
すると、名無き君は「あれ?私って、変な人間なのかなぁ?」と自信を失っていくかもしれない。

名無き君は、ただ単純に、少数派側から、{皆が見ている空き缶}を見ているだけなのにね。


そしてね。

もし名無き君が偶然、大多数の人と同じ側から、事実空き缶を見ていれば、「この事実空き缶は、事実だ!」と思うことになり、そして「この事実空き缶は、事実だ!」ということが、「正しい意見」「まともな意見」「常識的な意見」となるから・・
名無き君は、「ほら、やっぱり私はまともだし、私が正しい!」と思い込み、

反対側から事実空き缶を見ており、「いいや、この事実空き缶は、嘘だ!」と言っているA君のことを、「間違っているのはA君だ!A君はキチガイだ!」と見下し批判することになるのかもしれない。

名無き君は、ただ単純に、多数派側から{皆が見ている空き缶}を見ているだけなのにね。
A君は、ただ単純に、少数派側から{皆が見ている空き缶}を見ているだけなのにね。



<「まともか?」「正しいか?」「常識か?」に関する客観的判断基準は、自分以外の、他者達の意見によって決まっていく>
たとえば、名無き君が100人村に生まれていたとするよ。
その村では、名無き君以外の99人は、靴下の匂いを嗅ぐのが好きなド変態ばかりなんだ。

すると、自分が「私が1番まともだよね?」とアピールしても、周りの人達からは「名無きは変人だよね。どうして靴下の匂いを嗅がないの?キチガイだな。」とキチガイ扱いされることになるかもしれない。
誰も、自分のことを「まともな人。正しい人。常識ある人。」とは認めてくれないかもしれない。

相対性の世界においては、「正しいか?まともか?常識的か?」の客観的判断は、多数決で決まるから・・。


例えば100人村でね。
自分以外の99人が、とっても不味いラーメンを好きな場合。

自分が「私の味覚が、1番まともだよね?」とアピールしても、周りの人達からは「名無きは変人だよね。どうして、この美味しいラーメンが嫌いなの?変人だな。」と変人扱いされることになるかもしれない。
誰も、自分のことを「まともな人。正しい人。常識ある人。」とは認めてくれないかもしれない。

相対性の世界においては、「正しいか?まともか?常識的か?」の客観的判断は、多数決で決まるから・・。


例えば戦時中の100人村。
自分以外の99人は、戦争を肯定していてね。

自分が「戦争反対!平和が1番。私が正しいだろ?」とアピールしても、周りの人達からは「名無きは、おかしいよね。非国民な奴め。」とバカ者扱いされることになるかもしれない。
誰も、自分のことを「まともな人。正しい人。常識ある人。」とは認めてくれないかもしれない。

相対性の世界においては、「正しいか?まともか?常識的か?」の客観的判断は、多数決で決まるから・・。



「まとも」「正しい」「常識」・・・それらは、
絶対基準のない、相対性の世界の中での相対的基準であり、主に多数派によって作られる基準であって、また、時代とともに移り変わる基準でもあるのかもしれない。


だから、「まとも」「正しい」「常識」に、過度/過剰にまで囚われる必要はないし、「私って、まともでしょ?」「私が正しいでしょ?」「私って、常識あるよね?」と一生懸命に周りに対しアピールし、他者からの承認を求める必要もないのかもしれないね。


★常識と非常識/正しいまともな人とは?意味★
~承認欲求を諦めなさい。他人達の意見に振り回される必要はないから。~


UFOを見たのであれば、「私は、本当にUFOを見たんだよ!本当だよ!」と一生懸命にアピールし、他者からの承認を求める必要もないのかもしれないね。
「もしかしたら、自分も間違っているのかもしれない」という謙虚さは、必要なのかもしれないけれど。

自分が良かれ!と思う生き方をしつつ、幸せに生きているのであれば、「私は、自分なりは人生を楽しんでいるんだよ!本当だよ!」と一生懸命にアピールし、他者からの「貴方の人生は、楽しそうで良いですね。」などの承認を求める必要もないのかもしれないね。
「もしかしたら、自分も間違っているのかもしれない」という謙虚さは、必要なのかもしれないけれど。


「この世界は、絶対基準なき相対的な世界かぁ。」

そうだね。
そして、この世界は、絶対基準なき相対的な世界では、あるのだけれど、変わらない普遍/不変なモノも、ないわけでは、ないのかもしれない。

それが、法則や、原理原則・・なのかもしれない。


1万年前でも、現在でも、1万年後でも。
たとえ、どんな木であっても、木の枝が折れると、その{木の枝}は、地面に向けて落下していくことになる・・【重力の法則(万有引力の法則)】があるから。


普遍/不変の原理原則や法則は、この絶対基準なき移り変わる相対的な世界において、【(地球上から見るとほとんど動かない)北極星】のような、ものでもあるのかもしれないね。


「ほ~。変わらない、普遍/不変なモノ。」

そうだね。
そして世の歴史を調べていくと、賢者ほど、その【普遍/不変なモノ(原理原則や法則)】を頼りにして、人生を生きているようだよ。

マネーゲーム/投機とは?意味(マネーゲーム/投機の仕組み)にもあるとおり。
株式市場における株価(現在の株の価格は、いくらであれば適正価格か?)も他人の意見であり、多数派の意見によって、株価は形成されていくようなんだ。

ベンジャミン・グレアム/賢明なる投資家のレビュー(新賢明なる投資家 上)にあるとおり。
世界有数な投資家であるウォーレンバフェットは、多数派の意見(株価)とは別の、絶対的基準を見ているのかもしれないね。
だから、多数派からウォーレンバフェットを見ると、ウォーレンバフェットの売買基準や売買タイミングが理解できにくいのかもしれない。

しかしウォーレンバフェットは、「私って、まともでしょ?」「私が正しいでしょ?」「私って、常識あるよね?」と一生懸命にアピールして、皆からの承認を求めるようなことは、しないようだね。

「私が今、このタイミングでA社の株を買ったのは、△△の理由があってね・・私の売買タイミングは完璧でしょ?」と周りの人達から認めてもらおうとは、しないようだね。

賢者である彼は、絶対的基準を見ているために【相対性の罠】にハマり込んでいないから、、、なのかもしれない。


<絶対的基準を見ている人間は、他者からの承認を必要としないし求めない>
良書/賢者とは?意味/賢者の本(あるヨギの自叙伝)によると。

聖者であるヨガナンダ先生ですら、学生時代は周りの学友からキチガイ坊主と呼ばれていたそうだよ。
でも、先生は「私って、まともでしょ?」「私が正しいでしょ?」「私って、常識あるよね?」と一生懸命にアピールして、他者からの承認を求めようとはしなかったようだね。

賢者である先生は、絶対的基準を見ているために【相対性の罠】にハマり込んでいないから、、、なのかもしれない。


★常識と非常識/正しいまともな人とは?意味★
~絶対基準なき移り変わる相対性の世界における北極星 → 原理原則や法則~


そのため、自分は繁栄的な原則{正直/誠実/感謝/奉仕/謙虚/良心/他者の幸せを願う心}に沿って生きていこうと思うなら、そうすれば良いのかもしれない。
そうすることによって、‘生き方’が、ブレなくなるかもしれないね。
関連人生/生き方「迷わない指針」(繁栄原則と破滅原則)

しかし、だからといって、自分とは違う生き方をしている他者を、批判したりバカにしたり見下す必要はなく・・{大切な仲間}である他者のことを尊重すれば良いのかもしれない。
関連他人を見下す心理と世界観(世界観を愛深いものに変えていく)


つまり、自分基準(自分の意見)を大切にしつつ、謙虚な心「もしかしたら自分も間違っているのかもしれない。相手も、正しいのかもしれない。」も、もって、{大切な仲間}である他者のことを尊重しながら生きていくことにより・・

自分とは違う他者の{考え方・判断・世界観・意見・ものの見方、感じ方}を尊重し、他者の話を聞くようにする。


多様性に満ちた、多様性を肯定する世界においては、他者が、自分とまったく同じ{考え方・判断・世界観・意見・ものの見方、感じ方}をするのであれば、2人のうち1人は、必要ない・・とすら、いえなくはないのかもしれず・・

だからこそ、私達は皆、それぞれで違いがあり、自分と他者とは違いがあるから、他者も、自分も、この相対性の世界の中に存在していて、、、

他者も、自分も、尊重・尊敬されるに値するオリジナルな存在であるから、存在しているわけで。

そのため、自分とは異なる{考え方・判断・世界観・意見・ものの見方、感じ方}をする他者を、尊敬・尊重し、「もしかしたら、自分も間違っているのかもしれない。相手も、正しいのかもしれない。自分とは違う他者の話も聞いてみよう!」と、他者の話に耳を傾けてみるのも、悪くはないのかもしれないね。


そういった姿勢をもつことにより。
名無き君も、【相対性の罠】から抜け出し始め、幸せ~♪な仙人/仙女達が経験している自由な世界・・桃源郷の世界・・それは君の心の中にのみ存在する世界・・で幸せに生きていくことに、近づいていくのかもしれないね。
君の幸せな人生を、心から願っているよ。



②自分と他人の判断基準~常識と非常識/正しいまともな人とは?意味~
■A君はけして、私の絵を「上手だ」とは認めてくれないのでした。

私の「これらイラストは、ハイクオリティーだろ?」という意見を、まったく認めようとはしないし、私がA君の意見「この絵は、どう見ても上手ではないよ。」を否定すれば、A君は私に対して「いかに名無きの絵は小学生レベルか?」という話を理論がましく押し付けてくるのでした。


私は腹立たしい気持ちでいて、「自分が正しい!と思い込んでいる{自分のことが客観視出来ていない自己中心的なA君}には困るよなぁ。A君も私を見習い、まともな人間になってくれれば、良いのだけど・・。」と思っていたのですが。


もしかしたら、A君の意見も正しいのかもしれないし、絶対基準なき相対性の世界においては、「どういった絵を上手だと判断するか?」に関する客観的判断基準も、自分以外の他者達によって決まっており、また、その客観的判断基準も移り変わっていくことになるため・・

そう考えてみると、腹立たしい気持ちも、少しは薄れてきたのでした。


「ハイクオリティーすぎて、嫉妬させてしまうから僻まれ認めてもらえないのか?と思っていたけど、もしかしたら、時代的に、ちょっと早すぎるのかもしれないなぁ。」

時代の移り変わりの中で、多数の人達の美的センスが、ハイレベルな私のそれに追いついてきて・・いつの日にか、私の絵が「正統派のハイクオリティー作品だ。まともだ。」と評価される日もくるだろう。


「ちょっと、時代を先取りしすぎちゃったかな(´⊆`*)ゞテヘヘ」

時代が追いついていないだけで、自分の描くイラストは本来、まともな私と同じく、まともであることがわかり嬉しくなってきて・・・喜びの舞を、


喜びの舞を、


踊り続けたのでした。



~まとめ~
★常識と非常識/正しいまともな人とは?意味
→判断基準には「自分基準(自分の意見)」と、「他人基準(他人(たち)の意見)」の、2種類があるのかもしれない。
そして、「他人基準(他人(たち)の意見)」である、客観的な評価・・「貴方はまともな人ですね」「君は正しい人だよ」「○○さんは、常識ある人なのですね。」は、移り変わることもあるのかもしれない。

そのような中。
「自分基準(自分の意見)」を、移り変わることのない不変/普遍の原理原則や法則に合わせることで、私達は、周りの意見に流されることなく、ブレない、確固たる自分基準をもつことでき、また、その「自分は普遍の原理原則に沿って生きている」という自信から他者の意見をも、寛容に受け入れることが出来始めるのかもしれない。


★常識と非常識/正しいまともな人とは?意味
→「自分基準(自分の意見)」は大切であるが、謙虚さ「もしかしたら、自分も間違っているのかもしれない。相手も正しいのかもしれない。」も大切なのかもしれない。

誰しも勘違いして間違うことはあるし、また【2人には、違うように事実が見えており、尚且つ、その2人が見ている事実、両方ともが正しい】ということも、あるのかもしれないから。


★常識と非常識/正しいまともな人とは?意味
→「私は常識あるでしょ?」「私って、まともな人間よね?」「自分は、正しい人間でしょ?」と、周りへの承認を求める必要は、ないのかもしれない。
客観的判断における「常識」も「まとも」も「正しい」も、それらは単に、{多数派か?少数派か?}にすぎないため。
そういったことは、{多数派か?少数派か?}など、相対的に決まっている。この世界が相対性の世界だから。


★常識と非常識/正しいまともな人とは?意味
→この世界は、多様性を肯定している。
そのため、自分とは違う考え方や意見、感じ方をもっている他者のことを、批判したり、攻撃したり、否定したり、見下したり・・する必要は、ないのかもしれない。

大切な仲間である、自分とは違う{考え方/意見/感じ方}をする他者のことを、尊重する。
自分とは違うように見えても、本来は、同じ1つなのかもしれないのだから。


~常識と非常識/正しいまともな人とは?意味~
<writer 名無き仙人>





バス男「常識と非常識/正しいまともな人とは?意味・・かぁ。」

バス子「人間は十人十色だから、人それぞれで違いがあるわよね。」

仙人「自分とは違う他者をも尊重しつつ、楽しい幸せな人生を生きていけると良いのぉ。」







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